亮くんの死から3年半 -現在の家族の心境
今日、8月21日で亮君が亡くなって3年半になります。
亮くんの家族・友人は、亮君のいない日々を3年半過ごしてきました。
そして家族がNYで訴訟を初めてからそれだけの月日が経ったということになります。
亮くんのお姉さんに聞いた、今の状況や心境について少しご紹介したいと思います。
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3年以上訴訟を続け、最初は警察に腹を立て、 動かない検察に腹を立て、家族の味方であるはずの弁護士とぶつかり、 問題あるシステム(法律や警察・司法の在り方など)にも腹を立て、今に至ります。 システム全体が警察の責任を問わないようにできているのを感じ、 このシステムの中で裁判をしても真実を知ることができないかもしれないと感じる事があります。
弟の事故では警察内部の部署が捜査をしましたが、市警内の証拠の有無を確かめる力を持つ外部機関は不在でした。
例え警察が証拠を収集せず、真実が分からないようにしても、 検察はそれを容認し、法廷でも失われた証拠に対するおかしさを問うことはできず、誰も責任を負いません。調査、証拠収集を怠ってもそれを裁く法がありません。
裁判を起こす前も、警察に対し真実を求めても無駄だという意見も多く聞きましたが、何も訴えずに現地の弁護士や法廷に失望する事もおかしいように感じ、裁判を続けてきました。
裁判の周辺の状況は、良くありません。けれど失望したくないと思うのには、裁判を通し街の中で活動を続ける人と繋がり、力をもらったことが影響しています。他国のシステムに口出ししても仕方ないように感じたこともありましたが、街の中の人と繋がる中で、私達と同じような声を聞き、支えられてきました。
人権の活動の場に参加した時に、ある人が「すぐに何か変える事は難しいとしても、エスカレートする事を食い止める事はできるかもしれない。それに拒否の姿勢を見せることは市民の機能だと思う。」と話していた事が強く記憶に残っています。
この裁判を通し直接何かを変化させることは難しいかもしれないけれど、どこかで暴走を抑止するきっかけにはなるかもしれない、と思います。
真実を求める事が無駄な努力なのかどうかは、私には測れません。連邦裁判所の判事にできるかぎりそれを投げてみないと判断できない事だと感じています。
ニューヨークは好きな街だし、良くなるという風に思いたいと、人と接する度に思います。警察の力は大きく、警察の問題は社会構造と関係しており、一つの訴訟で大きく何かを変えられる事は難しいと思いますが、個々の裁判が同じ目的に繋がっている事を感じています。
今できる事はできる限り真実を求める事だけだと思っています。
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ご家族は3年半経った今も、葛藤しながら裁判に向き合っています。
私たちにできることは少ないかもしれません。でも亮くんの事故を風化させないことが、警察の暴走を食い止める力になるのかもしれません。